2025年9月15日月曜日

愛のかたち40周年:15日目

愛のかたち40周年タイムカプセル – 15日目

愛のかたちの40周年を記念するために、9月は毎日1つずつタイムカプセルを作ります。この偉大な作品に関連した人、出来事、モノを、1985年から現在までいろいろ集めます。

Help this blackbird, there's a stone around my leg

愛のかたち –今日の人

ビル・ウィーラン
ビル・ウィーラン

ビル・ウィーランがもっとも良く知られているのは、1994年のユーロビジョン・ソング・コンテストで、7分間の伝統的なアイルランドのダンスを披露したリヴァーダンスの作曲でしょう。これは本格的な舞台公演となり、アイルランドのダンスとケルト音楽の世界的な流行を巻き起こし、自身もグラミー賞を受賞しました。ビルは1970年代からアイルランドで多くの画期的なプロジェクトに関わっていました。プロデューサーとしては、U2(アルバム「うぉー」)、ヴァン・モリソン、ダブリンズ、プランクシティ、アンディ・アーバイン、デイヴィ・スピライン、パトリック・ストリート、ストックトンズ・ウィング、そして仲間のライムリックマンリチャード・ハリスなどと仕事をいます。1982年には、ケイトの曲夜舞うつばめのためにパイプとストリングスを作曲、編曲し、アルバム「あいのかたち」と「センシュアル・ワールド」に収録されている全てのアイリッシュ・パートの編曲を担当しました。

ウィンドミル・レーン・スタジオでのビル・ウィーラン(1980年代)
ウィンドミル・レーン・スタジオのビル・ウィーラン(1980年代)

ケイトは、ケイト・ブッシュ・クラブのニュースレターで、「愛のかたち」でのビルとのセッション、特に「ジグ・オブ・ライフ」について書いています。「(アイルランドに)行く主な理由は、ビル・ウィーランとウィンドミル・レーンで仕事をすることでした。ロンドンで会ってデモをビルに聞いてもらい、それからアイデアを考えてもらいました。全てのアレンジを済ませて、ミュージシャンとスタジオの時間を準備するために、数週間あけておく必要があるということで合意しました。ビルと一緒に仕事をするのが夢であっただけではなく、彼は私たちがとてもくつろげるようにしてくれましたし、アイルランドを本当に楽しく見ることができました。ビルは私たちを、フィドル奏者でダブリン出身の多才なミュージシャンであるジョン・シーハンに紹介してくれました。サンタクロースのような人でした。彼はビルが書いた曲を弾いてくれました。とても感動的で、心をこめて弾いてくれたので、涙が出てきて恥ずかしくなってしまいました。素晴らしい経験でした。お薦めの曲です

リア・カルドスは最近の著書「愛のかたち」の中で、「ジグ・オブ・ライフは、ギリシャとブルガリアの宗教的な祝宴の中で行われる何世紀も前から伝わる恍惚とした踊りと火を歩く儀式であるアナステナリアの儀式音楽からインスピレーションを得ている」と述べています。

ケイトはファンクラブのニュースレターで、続けてこのように書いています:「私たちが手がけたトラックの1つは、ギリシャの魅惑的な儀式についてパディが発見してテープに収めたものに触発されたものです。それが大きなインスピレーションなるということを確信して、実際にそのようになりました。私たちはそのテープをビル、リアム、ジョン、ドナルに聴いてもらいました。湖を訪れるためにアイルランドの西海岸に向かっていたパディが、ダブリンで私たちと合流して一緒に楽しみました。アイルランドのミュージシャンたちは、ノンストップシフトで、自分たちの音楽で曲に魔法をかけてくれ、私たちはコントロールルームで一斉に踊りました。

ビルは1980年代にウィンドミル・レーンでケイトのアルバム3枚のためにアイリッシュ・アレンジを録音。
ビルは1980年代にウィンドミル・レーンでケイトのアルバム3枚のためにアイリッシュ・アレンジを録音。

パディーのテープの情報はできるだけ活用しました。ビルのピアノで曲を書き終えたのは、その前日のことでした。奥さんが紅茶とビスケットを持ってきてくれました(ウィーラン夫人、ありがとうございました)。この曲の中心になっているのははジョン・シーハンです。ビルが指揮し、私はピアノでコードを弾き、ドナルはボドラン(アイルランドの小さなドラム)を演奏しました。1つのスタジオでやったので、お互いに探りながらでした。すぐに良いテイクが取れて、ジョンがフィドルをオーバーダビングしました。その後、ドナルはドラムとブズーキをオーバーダビングし、ジョンがホイッスルを、リアムがパイプを演奏し、ビルが書いたジグで曲の最後に一緒にジャムしました。ビルも他のメンバーもとても才能がり、彼のアレンジやアイデアは素晴らしいと思います。あの場所での作業は本当に楽しいものでした。

2022年、ビルはケイトとの仕事についてホットプレス・マガジンのインタビューで語っています。「ケイトはスタジオで一番の存在感を示し、かつ最も穏やかな存在で、とても楽しい作業でした」と振り返ります。「3枚のアルバムを一緒に作りました。仕事をするのと同じくらい笑っていましたね。ケイトの小さなジョークやちょっとした話を覚えています。ユーモアについてはかなりいたずら好きです。皆さんがご存知のような公のイメージはありませんでした

1984年の「愛のかたち」録音中のケイト – 写真:ジョン・カーダー・ブッシュ
1984年の「愛のかたち」録音中のケイト – 写真:ジョン・カーダー・ブッシュ

以前は暖炉の上にサラウンドを置いていました。そこにケイトが座っていました。息子のブライアンを4歳くらいでしたが紹介しました。『こちらが私の息子、ブライアン、こちらはケイトさん』と言いました。  そして彼女は『こんにちは、ブライアン』と言いました。とても優しい感じでしたた。息子が『誰?』と聞くのです。彼女は『私はケイト・ブッシュです』と言いました。すると彼は『ふーん』と言っていました。そしてドアから出て行きました。私たちが続けて暖炉の前でしゃべっていると、息子がドリーミングのアルバムを持って戻ってきました。  そして再びケイト・ブッシュのそばに座りました。そしてドリーミングアルバムの写真を見ました。ケイトはキスをしようとしていて、結婚指輪のような指輪を舌に乗せています。きれいな姿です。一方、その場の本人はジーンズとジャンパーを着ていました。彼女とジャケットを交互に見て、ケイトに向き合いました。そして『ケイト・ブッシュじゃないよ』と言ったのです。彼女はすっかりやられてしまいました。一緒に働くことができて本当によかったです」ビルはケイトと働くのが大好きでした。「ケイトには天井の存在みたいなイメージがありますが、実際にはとても素朴な人です。とても真面目に仕事に取り組み、本当に優しくて素敵な人で、人のことを大事にします。

愛のかたち – 今日のできごと

1987年のブリットアワードでのケイト

1986年のBPIアワードでは、3つの賞にノミネートされたにもかかわらず、ケイトの受賞はありませんでした。しかし、翌年の1987年のBPIアワードでは、キンクスのレイ・デイヴィスからベスト・ブリティッシュ女性アーティスト賞を授与されました。「愛のかたち」のアルバムの批評面での評価が固まったのに合わせ、「ケイト・ブッシュ・ストーリー」が12週間トップ4に入ったのです(1月には2回1位を獲得)。すごいことでした。

授賞式は1987年2月9日にロンドンのグロブナー・ハウス・ホテルで行われ、世界中のテレビ視聴者が見守りました。短い授賞式のスピーチの後、ケイトはピーター・ガブリエルにベスト・ブリティッシュ男性アーティスト賞を授与するためにステージに残りました。この2人は1986年のデュエットドント・ギブ・アップでトップ10ヒットを記録したところでした。

ケイト・ガブリエルとピーター・ガブリエル(1987年ブリット・アワード)
ケイト・ガブリエルとピーター・ガブリエル(1987年ブリット・アワード)
レイ・デイヴィスとのケイト
1987年のBPI賞で友人のナイジェル・ケネディとポーズをとるケイト

愛のかたち –今日の作品

katebushcollectables.comのご協力でお届けします)

カナダのプロモアナログLP – ケイト・ブッシュ・インタビューインタビューと音楽のリリースで、グレーの「EMI America」ラベルが付いており、ほとんどのコピーにはA4のキューシートが付いており、一部はプレスパック付きの特大のリボンで縛られた「Hounds of Love」フォルダに入っていました。このアイテムは、1985年11月、「愛のかたち」がカナダでプラチナに認定されたことを受けてマスコミにリリースされました。もし手に入れられるものを見つけたら儲けものです。

ケイト・ブッシュのインタビュー – カナダのアナログ盤プロモLP

愛のかたち –今日のトリビア

「愛のかたち」の初期のロットでは裏ジャケットの引用を正しいタイトルの『The Coming of Arthur』ではなく、『The Holy Grail』という詩だと間違って書いていたのをごぞんじでしたか?アルバムがトップテンに入った際に、ケイトはプレスインタビューでこの間違いに気づき、その後すぐにその後のアルバムプレスすべてでエラーを修正しました。

アルバムの裏ジャケットでの初期の詩のタイトルの誤り
アルバムの裏ジャケットでの初期の詩のタイトルの誤り

1985年にホット・プレスのインタビューで「ナインス・ウェーブ」の題名について話したとき、ケイトはアルフレッド・ロード・テニスン作のThe Coming of Arthurからの引用について説明しました。「テニソンのくだりは少し誤解を招きそうです。B面のインスピレーションでしたが、曲全体にタイトルが必要でした。曲の中にはちょうどいい言葉がなかったのです。何かを物語るタイトルが必要だったので、何冊かの本を調べてみると、テニソンからの完璧だと思える引用が見つかり、それにしたのです」と述べています。初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンは、イギリスの詩人(1809年-1892年)。

‘Wave after wave, each mightier than the last,
Till last, a ninth one, gathering half the deep
And full of voices, slowly rose and plunged
Roaring, and all the wave was in a flame’

? ‘The Coming of Arthur’

手書きのテニスンの引用が入ったビフォー・ザ・ドーンでの紙ふぶき
手書きのテニスンの引用が入ったビフォー・ザ・ドーンでの紙ふぶき

テニスン自身の手書きをデザイナーのディック・バードが忠実に模倣したものを印刷した紙吹雪が、2014年のビフォー・ザ・ドーンのショーで観客に向けて打ち出されました。ケイトもプログラムノートで書いている素晴らしいディテールです。

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