2018年1月20日土曜日

40年前 - ホームグラウンド・アンソロジーから読む「嵐が丘」

ホームグラウンド・アンソロジー Vo. I の中の回想: 嵐が丘と天使と小悪魔 : 1977 - 1978 より。 ― アマゾンではこちらでお買い上げいただけます

「… 我々の知るところでは、ケイト・ブッシュの最も有名な曲は、1977年の3月に、 窓から輝く満月が見える夜更けに書かれたと言われている。 それは、エミリー・ブロンテの小説を原作にBBCが1967年に制作したテレビドラマの中で、 キャシーが窓辺に佇むシーンを見て以来、彼女に憑りついていたものを 振り払う儀式であったのかもしれない。 ケイト本人にとってもデビューシングルにするつもりの曲では無かったが、 1977年8月のレコーディングセッションでは、音楽的にも歌の面からも世間がどうしても 無関心ではいられなく なるような曲であることが明らかになった。 最初EMIはそうは思わなかったようだ。ジェイムズ・アンド・コールド・ガンが リードシングルにはよいと彼らは考えていた。 もし、それが通っていたとしたら、その後はどうなっていたんだろうと思わずにはいられない。 大ヒットになっただろうか? ケイトのキャリアにとって長い目でみるとよい結果をもたらして いただろうか? 大衆、ロック業界の大御所、マスコミは違った目でケイトを見ていただろうか?

最終的にはEMI側が折れて、ケイトの選択が通った。そしてリリース日は1977年11月4日と 設定された。 デモ盤がプレスされ、世に送り出され、そのうちの1枚は ロンドンの民放ラジオ局キャピタル・ラジオのレイト・ショウのプロデューサーをしていた エディー・ピューマの机にたどり着いた。 彼は一聴するなり引き込まれ、番組のDJであるトニー・マイアットに手渡した。 二人ともそのレコードがたいへんなパワーをもったすごいシングルであるということに 疑いを持たず、すぐにプレイし始めた。 同じ局の他のDJたちはそれほどでもなかったのだが。

そのころEMIのマンチェスター・スクエアの本社では、 ジャケットのデザインについて論争が巻き起こっていた。 会社としてはジェレド・マンコヴィッツのケイトがピンクのレオタードを着た写真を 中心に、ポスターのメインの写真や、シングルとアルバムのジャケットにも使って、 イメージを統一してキャンペーンを張ろうと考えていた。 ケイト自身は、自分の音楽ではなく自分の写真をメインにキャンペーンが行われることを 良しとはせず、ボーイフレンドのデル・パーマーが作ったカイトの曲のコンセプトを フィーチャーしたデザインが良いと主張した。 それはもう遅すぎるほどだったが、結局はEMIが折れてケイトの主張を通すのを許した。 Though it was late in the day, EMI again relented and allowed Kate to have her way.

シングルのリリース日は何度かにわたって延期された。 発売日に先立ってエアプレイされることで宣伝がうまくいかなくなることを恐れて、 EMIはラジオ局に対して当面ラジオでデモ盤をかけないように依頼するレターを送った。 多くはそれに従ったがトニー・マイアットとエディー・ピューマは従おうとせず、 キャピタル・ラジオでは嵐が丘が11月から12月にかけて放送された。 イングランドの北方のマンチェスターのピカデリー・ラジオでも プレイリストにこの曲を入れたし、BBCラジオ1も最後には視聴者のリクエストに負けて 曲をかけざるを得なくなった。

新しいジャケットが用意されるころには、クリスマスの季節が近づいており、 ケイトの新曲をクリスマスの喧騒の中に放り込むのはよくないという判断になった。 そして、リリース日は1978年の1月20日に設定しなおされた。

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