2025年9月17日水曜日

愛のかたち40周年:17日目

愛のかたち40周年タイムカプセル – 17日目

愛のかたちの40周年を記念するために、9月は毎日1つずつタイムカプセルを作ります。この偉大な作品に関連した人、出来事、モノを、1985年から現在までいろいろ集めます。

愛のかたち –今日の人

ガウ・ハンター
ガウ・ハンター

1986年のケイトの「愛のかたち」のシングルのためのビデオに登場したダンサーでもある俳優のガウ・ハンターは、2011年6月、51歳で残念なことにこの世を去りました。ケイトは自身の公式サイトで次のように述べています。「ガウさんのことを聞いて、とても悲しい思いです。「愛のかたち」のビデオの男性スターでしたが、一緒に仕事をするのがとても楽しい素敵な男性でした。本当に偉大な映画スターの顔をしていました。実に素敵な人でした

振付家・ダンサーであったガウは、亡くなる前は東京に住んでおり、写真集を何冊か出版していました。1986年2月にリリースされたシングル「愛のかたち」のプロモーションビデオはヒッチコックにインスパイアされたもので、誤って告発された男を演じるガウの美しい演技を見ることができます。この役で彼以上に完璧な人を想像するのは難しいことです。

「愛のかたち」のビデオでのケイトとガウ – 写真:ジョン・カーダー・ブッシュ
「愛のかたち」のビデオでのケイトとガウ – 写真:ジョン・カーダー・ブッシュ

1997年発行の彼の自伝より: クラシカル・バレエ出身のガウは、様々なバレエ団と踊り、テレビ、ビデオ、映画、演劇、オペラなどで多様で挑戦的な仕事を続ました。パリ、ローマ、ジュネーブ、ソウル、ロンドンなど、数多くの国々で活躍し、ケイト・ブッシュ、プラシード・ドミンゴ、デビッド・ベイリー、ロバート・ルパージュなど、才能豊かなパフォーマーや監督と仕事をしています。

Gow Hunter appears with Kate at the BPI Awards, February 1986
Gow Hunter appears with Kate at the BPI Awards, February 1986

プロのダンサーとしてキャリアで成功を収めたた後、ガウはセントラル・セント・マーチンズ美術デザイン学校に入学し、テキスタイル・デザインで美術学士の学位を取得しました。彼のデザインはロンドンファッションウィークのキャットウォーク、個展、自身のニットテキスタイルアクセサリーのレーベルで見られます。ガウは常にいろいろな創造的なものに情熱を捧げ、写真撮影をいつも刺激的な娯楽として楽しんでいました。ガウは2007年から東京に在住し、日本の写真を撮ることに多くの時間を費やしており、生涯にわたる写真への情熱を満たしています」

愛のかたち –今日のできごと

本日は、1985年12月に撮影されたアルバム愛のかたちの3枚目のシングルであるタイトルトラックのためにケイトが監督した美しいプロモーションビデオの作成を祝います。シングルは1986年2月17日にリリースされました。ケイト・ブッシュ・クラブのニュースレターにケイトはこう書いています。「愛のかたちは3枚目のシングルで、クラウドバスティングに続くビデオの制作になり、ハードルが高い感じでした。それでも「短編映画」を作るというアプローチを続けたいと考えて、今回は「ヒッチコック」風の短編スリラーをやってみたいと思いました

さらに続けてこのように書いています:「パディーの提案で三十九階段のテーマの着想を得て、クリスマスの2?3週間の間は、私の生活はこの3番目のビデオでいっぱいになりました。特にクリスマスには、みんなパーティーで忙しかったのでミーティングを開くのが大変でした。あるミーティングでは、派手な服装で現れた人もいました。良かったことは、クリスマスの時期のために、一般的には仕事が少なく、撮影を自由に行える優秀なスタッフが確保できたことです」 

「三十九階段」の映画ポスターと、一緒に手錠をかけられている主演のロバート・ドーナットとマドレーヌ・キャロル。
「三十九階段」の映画ポスターと、一緒に手錠をかけられている主演のロバート・ドーナットとマドレーヌ・キャロル。

1935年に公開された「三十九階段」はアルフレッド・ヒッチコック監督の映画で、ロンドン在住のカナダ人リチャード(ロバート・ドーナット)が、「三十九階段」と呼ばれるスパイ組織がイギリス軍から機密を盗み出すのを阻止する作戦に巻き込まれます。反スパイ活動家の殺害で誤って告発されたハネイは、スコットランドに逃亡し、パメラ(マドレーヌ・キャロル)という女性と絡むことになり(そして文字通り手錠をかけられ)、スパイ組織の活動を止めて自分の名前を晴らそうとします。

ケイトとガウ・ハンターの最後のダンス - 写真はジョン・カーダー・ブッシュ
ケイトとガウ・ハンターの最後のダンス - 写真はジョン・カーダー・ブッシュ

ケイトのお兄さんであるジョン・カーダー・ブッシュは、ビデオの撮影中に多くの記憶に残るセット写真を撮っています(写真集「ケイト: インサイド・ザ・レインボウ」には多くの例があります)。そして、ケイト・ブッシュ・クラブのニュースレターにこの撮影についての素晴らしい記事を書いています:「愛のかたちのビデオは、もう1つ別の意味でもケイトにとって初めてのものでした。初めて正式に監督を担当し、カメラの前と後ろの両方で作業するという、なかなかたいへんで創造的な仕事をしました。このような状況では、実際の撮影はフィルムで行う場合でもビデオの再生が不可欠です(このアルバムの動画はすべてビデオではなくフィルムで撮影)が、残念ながら、フィルムの撮影機と同期したビデオ再生システムを完成させることはできておらず、利用できるシステムは白黒で非常に低品質なものでした。これは「クラウドバスティング」よりもはるかに集中して制作したビデオで、寒い夜のウィンブルドンコモンでの短いシーンを除けば、同じスタジオで撮影しました」

愛のかたちのミュージックビデオ監督としてデビューしたケイト
愛のかたちのミュージックビデオ監督としてデビューしたケイト – 写真:ジョン・カーダー・ブッシュ

ジョンはこう続けます:「最初のセットは、1940年代のある時期の博物館で、照明とデザインが素晴らしいものでした。光は長く高い窓から、本物の昼の光のように差し込んできました。それは、はるか頭上で煙を吐きながら唸っているタングステンの怪物から放たれたものです。エキストラと主演キャストがセットに入ってきたときには、服とメイクがみんなが完全に変わっていて、両親やその友人たちの若いころと顔を合わせているような奇妙な感覚でした。キャストには有名人と顔が似ているので選ばれ人もたくさんいます。ヒッチコックやアインシュタインが分かるでしょうか。そして、全員外見で選ばれています。博物館のセットで何時間か写真を撮れたら良かったのですが。かなり広いせっとでしたが、重要なテイクには回転するショットがあったので、セット全体が非常に早くカバーされ、私は隠れる場所がありませんでした。

「愛のかたち」ビデオの博物館セットでのケイト、パディ、エキストラ
「愛のかたち」ビデオの博物館セットでのケイト、パディ、エキストラ

幸いなことに、このことはスモーク担当者のために考慮されていました。博物館の奥のスペースがセットの後ろにつながっていたので、私もそこに入り込みました。撮影はこんな感じで進みました。カメラがケイトの周りを動き始め、スモーク担当者は扇風機を持って身を乗り出し、奥のスペースに戻ってくる。されにカメラが回り、クルーは踊り回るパーティー参加者のようにカメラにぶら下がって、私は飛び出してテイクの終わりを撮影する。使っていたレンズはかなり広角で、こうするしかありませんでした。このセットはとても暑くて、外に出て昼食の列に並んだときにはものすごいコントラストでした。雪が降り出したのです。

パーティーセットでのケイトとガウ・ハンター
パーティーセットでのケイトとガウ・ハンター

「2つめのメインセットは小さく、40年代のころの教会で行われたホールパーティーを表現しています。掲示板には民間防衛指示書も貼ってありました。パーティーは朝の9時に始まり、夜の11時まで続きました。撮影ごとにパーティー参加者はフレッシュで楽しそうに見えるようにする必要がありました。カメラにとって幸いなことに、食べ物や飲み物はすべて小道具で、魅力的に見えてもそのまま置いておくしかなかったのです。私にとって本当のハイライトは本物のコンガが始まった時でした。

ケイトとガウ・ハンターとのパーティーでのパディ・ブッシュ
ケイトとガウ・ハンターとのパーティーでのパディ・ブッシュ

愛のかたちのトラックに合わせて、コンガのような伝統的な社交ダンスを列をなした酔っぱらいのパーティー参加者が踊るなんて考えたこともありませんでしたが、あまりに衝撃的だったので、曲を聞くたびにあの隊列が何度もセットを通過するのが目に浮かんでしまいます。視覚的にはいい雰囲気でしたが、写真を撮るのは簡単ではありませんでした。写る範囲だけでなくその他のスペースにも大勢の人がいたので、隠れるスペースが限られていて、ケイトの写真を撮ることはほとんど不可能でした。ここでも同じで、カメラが回転するショットでは部屋全体が使われることになるので、今回は本当に隠れる場所がありませんでした」

ケイトとガウ・ハンターとのパーティーでのパディ・ブッシュ(右)
ケイトとガウ・ハンターとのパーティーでのパディ・ブッシュ(右)

ジョンはこの素晴らしいレポートを次のように締めくくっています。「しかし、進行していたパーティーから離れて何巻ものフィルムと作業する過程では、エンジニアやエディター、ビデオへの転写を担当する人が引き継いで、また別のエネルギーの高い作業になりました。フィルムの缶はある方向に進んでいきますが、私はその反対側に動いて、フィルムのロールから収穫物をみつけようとしました

ケイトとガウ・ハンター - 写真ジョン・カーダー・ブッシュ
ケイトとガウ・ハンター - 写真ジョン・カーダー・ブッシュ

愛のかたち –今日の作品

「愛のかたち」シングルリリースの広告ポスター

この巨大な愛のかたちのシングルリリース広告ポスターは60インチ x 40インチというサイズで1986年2月にロンドンの地下鉄駅の壁を飾ってシングルリリースを宣伝したものです。シングルジャケットのレイクランドを背景にしたケイトの顔の白黒のポートレート、そしてビデオ撮影からのケイトの3枚の写真は、逮捕された恋人との対面で眼鏡を外しているところで、すべてジョン・カーダー・ブッシュが撮影した美しい画像です。額装されるととても印象的です。美しい!

愛のかたち –今日のトリビア

イギリスの映画監督アルフレッド・ヒッチコックは自身の40本の映画にカメオ出演しています。それは下宿人の制作中に、ある俳優が現れず、監督が代わりに出演したことから始まりました。遊び心のあるジェスチャーはヒッチコックのトレードマークの1つとなり、彼のカメオを見つけようとするのがファンのゲームになりました。ケイトはこの伝統に敬意を表し、愛のかたちのビデオの博物館のシーンの冒頭でヒッチコックに似た人が画面を横切って歩きます。

アルフレッド・ヒッチコックにそっくりな人の愛のかたちのビデオへのカメオ出演。

1990年のVH1のインタビューで、ケイトは偉大な監督について語っています。「映画の中で私の好きなのは、アルフレッド・ヒッチコックです。私から見ると天才です。完全に革命的で、とてもウィットに富んでますが、その映画を見るたびに、彼から映画産業について学ぶことが多いと感じます。本当に美しい。目の代わりにカメラが付いていたように思います。私がヒッチコックみたいに仕事をしているというような感じになってしまうと困りますが、間違いなく私がビデオを作るときはいつでも、私に途方もない影響を与えてくれる人です。本当に究極の基準点ですね

アルフレッド・ヒッチコックの有名なカメオ
アルフレッド・ヒッチコックの有名なカメオ

2025年9月16日火曜日

愛のかたち40周年:16日目

愛のかたち40周年 – 16日目

愛のかたちの40周年を記念するために、9月は毎日1つずつタイムカプセルを作ります。この偉大な作品に関連した人、出来事、モノを、1985年から現在までいろいろ集めます。そして、今日9月16日は、アルバムのリリースからちょうど40年になります。

When I was a child, running in the night Afraid of what might be Hiding in the dark, hiding in the street And of what was following me

愛のかたち –今日の人

アラン・マーフィー
アラン・マーフィー(左、右は大空のビデオでのケイトと一緒の姿)

Smurph, playing his guitar refrain...」ケイトのキャリア全体を通して最も一貫して一緒に仕事をする機会が多かった優秀なギタープレイヤーの一人であり、親友でもあるアラン・マーフィーは、心を締め付けるような感情的なバラード、モーメンツ・オブ・プレジャーの歌詞を書いたとき、彼女の心の中で大事な存在でした。1989年10月19日に36歳で亡くなったアランは、当時最も偉大で最も才能のあるギタリストの一人であると広く認識されていました。

ケイトとケビン・マカレアと共演するアラン(右) - 「大空」のビデオ(1986)
ケイトとケビン・マカレアと共演するアラン(右) - 「大空」のビデオ(1986)

アランは1979年のツアーでもケイトと一緒に仕事をし、その後1980年代のアルバム魔物語ドリーミング愛のかたちセンシュアル・ワールドのすべてにギターの演奏で貢献しています。ケイトとの仕事だけでなく、ゴー・ウェストやレベル42とのコラボレーションでも知られています。ケイトとの仕事について、アランは1986年にギタリスト誌に次のように語っています。「私にとって、ケイトとの仕事はすべての始まりでした。そしてそれまでと違ったのは、どう見てもブルースではなかったということです。初期には、自分でどうすればできるか分かるようなことは1つもやりませんでしたし、当時やっていたことはどれもサウンドや色の質感のようなものでした

Alan Murphy during rehearsals for the 1979 tour - with Paddy Bush, Brian Bath and Kate.
1979年のツアー・オブ・ライフのリハーサルでの、パディ・ブッシュ、ブライアン・バス、ケイトと一緒のマーフィー
Alan Murphy in the studio ? Never For Ever sessions 1980 ? sketch by Brian Bath
魔物語のセッションでのブライアン・バスによるアラン・マーフィーのスケッチ(1980)

「愛のかたち」のアルバムでは、アランが神秘の丘大空魔女でギターを弾いているのを聴けます。ケイトは1984年にアルバム「愛のかたち」の制作について書いています。「その2曲ははまだ成長を続けていましたが、そのスペースはキープされていて、ギターが入るのを切望していました。アラン・マーフィーはそれまでのアルバムでも素晴らしいギターを演奏していましたが、これも例外ではありませんでした。一日中をかけて作業をしましたが、オーバーダブのたびに曲が開花する様子を聞くのはとてもエキサイティングでした。私との間には良い音楽的コミュニケーションがあって、それは自分にとっても刺激的だと思います。私たちはとても「重い」サウンドのギターが欲しかったので、良く響く部屋でアランのアンプを使ってミックスしました。ヘイドンが恐ろしいほど騒々しいギターの音を出し、アルが残りを担当しています

アラン・マーフィーとケイト - 「大空」のビデオ(1986)
アラン・マーフィーとケイト - 「大空」のビデオ(1986)

大空」についてケイトは次のように書いています。「この曲の構成はかなり変わりました。ギターはアラン・マーフィー、ベースはユースというミュージシャンの助けを借りて、曲にかなりのロックンロール感を加えました。この曲は2回大きくやり直していて、前述のプレイヤーはそこで劇的にアレンジを変えましたが、これはほとんどの曲では珍しいことです

アラン・マーフィーの大好きなスクワイアギター
アラン・マーフィーの大好きなスクワイアギター
アラン・マーフィー – ジョン・カーダー・ブッシュによる写真 – KBCニュースレター(1984年)
アラン・マーフィー – ジョン・カーダー・ブッシュによる写真 – KBCニュースレター(1984年)

アランの「魔女」での壮大な演奏は、この曲の姿を大きく変えました。Kateは次のように書いています:「この曲はギタリストのアラン・マーフィーを通じて書いたものです。鍵盤楽器ではいい形にならなかったと思います。彼が作業したときはドラムトラックだけで、私はハミングでパターンを伝えようとしました。彼が出してくれた音はどれもすばらしく、私たちはその日をかけてギターを積み上げ、それからその上にボーカル、フェアライト、シーケンサーを加えていきました。ありがとう、アランさん

Alan Murphy with Kate - The Big Sky video (1986)

アランは「大空」のビデオでケイトと楽しそうにしている姿が見られますが、1991年の「ロケットマンのビデオではケイトがアランに敬意を表しています。バンドと演奏していますが、そこにはアラン・マーフィーがいたはずの空の椅子、ギター、ろうそくが置かれ、クロージングのコーラスでアランが演奏している映像がクロスフェードします。ケイトは1991年にBBCラジオ1でこう話しています。「これはアランが参加した最後の曲のひとつです。この曲のために彼が生き続けてくれるというだけでなく、このシングルがとても好評なのを知るとすごく喜んでもらえると思うと特にうれしく感じます。そして、アランを愛していた私たち全員にとって、彼が今その一員になれるという感覚は素晴らしいものです」アランさん、美しい作品をありがとうございます。

Kate's tribute to Alan in the Rocket Man video (1991)
ロケットマンのビデオでのケイトのアランへのトリビュート(1991)

愛のかたち –今日のできごと

ケイト・ブッシュの5枚目のスタジオ・アルバム「愛のかたち」は、ちょうど40年前の今日、1985年9月16日にリリースされました。販売的にも批評的にも大きな成功を博し、今でもときどき歴代最高のアルバムのリストや投票で、よく登場しています。当然ながら、リスナーを魅了し続け、インスピレーションを今でも与えてくれる並外れた作品です。ケイトのお気に入りのアルバムの一つでもあり、2014年のコンサートでは、アルバムのほとんどすべての曲を演奏しました。1985年後半のイギリスのTV広告があります。

「愛のかたち」の雑誌広告(1985)
1985年の「愛のかたち」の雑誌広告で、タイトル曲のスペルが間違っていました。

EMIによるこのアルバムのマーケティングは、ケイトのリリースとしては前例のない規模でした。 UKだけでも数十万ポンドが印刷媒体やテレビでのプロモーション、バス広告、ポスター、ウィンドウディスプレイ、音楽メディアでの全面広告などに投下されました。 その効果もあり、このアルバムはUKで30万枚を超える売り上げでプラチナステータスを獲得し、 後にはUKでも国外でも100万枚以上を売り上げたと認定されています。

A 1985 USA record store promo flat
1985年のアメリカでのレコードストアのプロモーション用ディスク

新聞や雑誌の広告やテレビ広告が打たれ、米国でもそれまでにない規模のプッシュで、限定盤のカラーLPやカセット、大規模な印刷媒体の広告プログラム、ポスターの大規模投下、さらにはテレビネットワークでビデオの放映などがありました。

愛のかたちの店頭ディスプレイ(犬付き)
愛のかたちの店頭ディスプレイ(犬付き)

「愛のかたち」は、アナログ盤、XDRカセット、(比較的最近の)コンパクトディスクのフォーマットでリリースされました。UKアルバムチャートでは1位を獲得し、マドンナの「ライク・ア・ヴァージン」をトップから引き落とし、アメリカではビルボードのアルバムチャートで30位を記録しました。2022年にはアメリカでさらに上位にランクインすることになり、その年の神秘の丘のアメリカでの成功の波に乗って12位に到達しました。いわゆるスマッシュヒットです。

愛のかたち - 1985年のイタリアの広告ポスター
愛のかたち – 1985年のイタリア広告ポスター

愛のかたち –今日の作品

この美しい一品は、額装されサインされた限定版の「愛のかたち」アートプリントです。サイズは9インチ x 13.5インチで、2つのデザインがあり、1985年の愛のかたちの一般販売LPの挿入物として入っていた特別版アイテム注文書を通じて販売されました。販売は1,000部のみでした。価格は19.99ポンドだったので、とてもお買い得です。ケイト自身がサインしたアイテムであるため、今では多くの人が探し求めている品です。

愛のかたち –今日のトリビア

今日は手短かに。「愛のかたち」は韓国で初めてリリースされたケイト・ブッシュのアルバムでした。今はご存知ですね。タイムカプセルでは素晴らしいものに出会えます。

「愛のかたち」韓国盤(1985)
「愛のかたち」韓国盤(1985)

2025年9月15日月曜日

愛のかたち40周年:15日目

愛のかたち40周年タイムカプセル – 15日目

愛のかたちの40周年を記念するために、9月は毎日1つずつタイムカプセルを作ります。この偉大な作品に関連した人、出来事、モノを、1985年から現在までいろいろ集めます。

Help this blackbird, there's a stone around my leg

愛のかたち –今日の人

ビル・ウィーラン
ビル・ウィーラン

ビル・ウィーランがもっとも良く知られているのは、1994年のユーロビジョン・ソング・コンテストで、7分間の伝統的なアイルランドのダンスを披露したリヴァーダンスの作曲でしょう。これは本格的な舞台公演となり、アイルランドのダンスとケルト音楽の世界的な流行を巻き起こし、自身もグラミー賞を受賞しました。ビルは1970年代からアイルランドで多くの画期的なプロジェクトに関わっていました。プロデューサーとしては、U2(アルバム「うぉー」)、ヴァン・モリソン、ダブリンズ、プランクシティ、アンディ・アーバイン、デイヴィ・スピライン、パトリック・ストリート、ストックトンズ・ウィング、そして仲間のライムリックマンリチャード・ハリスなどと仕事をいます。1982年には、ケイトの曲夜舞うつばめのためにパイプとストリングスを作曲、編曲し、アルバム「あいのかたち」と「センシュアル・ワールド」に収録されている全てのアイリッシュ・パートの編曲を担当しました。

ウィンドミル・レーン・スタジオでのビル・ウィーラン(1980年代)
ウィンドミル・レーン・スタジオのビル・ウィーラン(1980年代)

ケイトは、ケイト・ブッシュ・クラブのニュースレターで、「愛のかたち」でのビルとのセッション、特に「ジグ・オブ・ライフ」について書いています。「(アイルランドに)行く主な理由は、ビル・ウィーランとウィンドミル・レーンで仕事をすることでした。ロンドンで会ってデモをビルに聞いてもらい、それからアイデアを考えてもらいました。全てのアレンジを済ませて、ミュージシャンとスタジオの時間を準備するために、数週間あけておく必要があるということで合意しました。ビルと一緒に仕事をするのが夢であっただけではなく、彼は私たちがとてもくつろげるようにしてくれましたし、アイルランドを本当に楽しく見ることができました。ビルは私たちを、フィドル奏者でダブリン出身の多才なミュージシャンであるジョン・シーハンに紹介してくれました。サンタクロースのような人でした。彼はビルが書いた曲を弾いてくれました。とても感動的で、心をこめて弾いてくれたので、涙が出てきて恥ずかしくなってしまいました。素晴らしい経験でした。お薦めの曲です

リア・カルドスは最近の著書「愛のかたち」の中で、「ジグ・オブ・ライフは、ギリシャとブルガリアの宗教的な祝宴の中で行われる何世紀も前から伝わる恍惚とした踊りと火を歩く儀式であるアナステナリアの儀式音楽からインスピレーションを得ている」と述べています。

ケイトはファンクラブのニュースレターで、続けてこのように書いています:「私たちが手がけたトラックの1つは、ギリシャの魅惑的な儀式についてパディが発見してテープに収めたものに触発されたものです。それが大きなインスピレーションなるということを確信して、実際にそのようになりました。私たちはそのテープをビル、リアム、ジョン、ドナルに聴いてもらいました。湖を訪れるためにアイルランドの西海岸に向かっていたパディが、ダブリンで私たちと合流して一緒に楽しみました。アイルランドのミュージシャンたちは、ノンストップシフトで、自分たちの音楽で曲に魔法をかけてくれ、私たちはコントロールルームで一斉に踊りました。

ビルは1980年代にウィンドミル・レーンでケイトのアルバム3枚のためにアイリッシュ・アレンジを録音。
ビルは1980年代にウィンドミル・レーンでケイトのアルバム3枚のためにアイリッシュ・アレンジを録音。

パディーのテープの情報はできるだけ活用しました。ビルのピアノで曲を書き終えたのは、その前日のことでした。奥さんが紅茶とビスケットを持ってきてくれました(ウィーラン夫人、ありがとうございました)。この曲の中心になっているのははジョン・シーハンです。ビルが指揮し、私はピアノでコードを弾き、ドナルはボドラン(アイルランドの小さなドラム)を演奏しました。1つのスタジオでやったので、お互いに探りながらでした。すぐに良いテイクが取れて、ジョンがフィドルをオーバーダビングしました。その後、ドナルはドラムとブズーキをオーバーダビングし、ジョンがホイッスルを、リアムがパイプを演奏し、ビルが書いたジグで曲の最後に一緒にジャムしました。ビルも他のメンバーもとても才能がり、彼のアレンジやアイデアは素晴らしいと思います。あの場所での作業は本当に楽しいものでした。

2022年、ビルはケイトとの仕事についてホットプレス・マガジンのインタビューで語っています。「ケイトはスタジオで一番の存在感を示し、かつ最も穏やかな存在で、とても楽しい作業でした」と振り返ります。「3枚のアルバムを一緒に作りました。仕事をするのと同じくらい笑っていましたね。ケイトの小さなジョークやちょっとした話を覚えています。ユーモアについてはかなりいたずら好きです。皆さんがご存知のような公のイメージはありませんでした

1984年の「愛のかたち」録音中のケイト – 写真:ジョン・カーダー・ブッシュ
1984年の「愛のかたち」録音中のケイト – 写真:ジョン・カーダー・ブッシュ

以前は暖炉の上にサラウンドを置いていました。そこにケイトが座っていました。息子のブライアンを4歳くらいでしたが紹介しました。『こちらが私の息子、ブライアン、こちらはケイトさん』と言いました。  そして彼女は『こんにちは、ブライアン』と言いました。とても優しい感じでしたた。息子が『誰?』と聞くのです。彼女は『私はケイト・ブッシュです』と言いました。すると彼は『ふーん』と言っていました。そしてドアから出て行きました。私たちが続けて暖炉の前でしゃべっていると、息子がドリーミングのアルバムを持って戻ってきました。  そして再びケイト・ブッシュのそばに座りました。そしてドリーミングアルバムの写真を見ました。ケイトはキスをしようとしていて、結婚指輪のような指輪を舌に乗せています。きれいな姿です。一方、その場の本人はジーンズとジャンパーを着ていました。彼女とジャケットを交互に見て、ケイトに向き合いました。そして『ケイト・ブッシュじゃないよ』と言ったのです。彼女はすっかりやられてしまいました。一緒に働くことができて本当によかったです」ビルはケイトと働くのが大好きでした。「ケイトには天井の存在みたいなイメージがありますが、実際にはとても素朴な人です。とても真面目に仕事に取り組み、本当に優しくて素敵な人で、人のことを大事にします。

愛のかたち – 今日のできごと

1987年のブリットアワードでのケイト

1986年のBPIアワードでは、3つの賞にノミネートされたにもかかわらず、ケイトの受賞はありませんでした。しかし、翌年の1987年のBPIアワードでは、キンクスのレイ・デイヴィスからベスト・ブリティッシュ女性アーティスト賞を授与されました。「愛のかたち」のアルバムの批評面での評価が固まったのに合わせ、「ケイト・ブッシュ・ストーリー」が12週間トップ4に入ったのです(1月には2回1位を獲得)。すごいことでした。

授賞式は1987年2月9日にロンドンのグロブナー・ハウス・ホテルで行われ、世界中のテレビ視聴者が見守りました。短い授賞式のスピーチの後、ケイトはピーター・ガブリエルにベスト・ブリティッシュ男性アーティスト賞を授与するためにステージに残りました。この2人は1986年のデュエットドント・ギブ・アップでトップ10ヒットを記録したところでした。

ケイト・ガブリエルとピーター・ガブリエル(1987年ブリット・アワード)
ケイト・ガブリエルとピーター・ガブリエル(1987年ブリット・アワード)
レイ・デイヴィスとのケイト
1987年のBPI賞で友人のナイジェル・ケネディとポーズをとるケイト

愛のかたち –今日の作品

katebushcollectables.comのご協力でお届けします)

カナダのプロモアナログLP – ケイト・ブッシュ・インタビューインタビューと音楽のリリースで、グレーの「EMI America」ラベルが付いており、ほとんどのコピーにはA4のキューシートが付いており、一部はプレスパック付きの特大のリボンで縛られた「Hounds of Love」フォルダに入っていました。このアイテムは、1985年11月、「愛のかたち」がカナダでプラチナに認定されたことを受けてマスコミにリリースされました。もし手に入れられるものを見つけたら儲けものです。

ケイト・ブッシュのインタビュー – カナダのアナログ盤プロモLP

愛のかたち –今日のトリビア

「愛のかたち」の初期のロットでは裏ジャケットの引用を正しいタイトルの『The Coming of Arthur』ではなく、『The Holy Grail』という詩だと間違って書いていたのをごぞんじでしたか?アルバムがトップテンに入った際に、ケイトはプレスインタビューでこの間違いに気づき、その後すぐにその後のアルバムプレスすべてでエラーを修正しました。

アルバムの裏ジャケットでの初期の詩のタイトルの誤り
アルバムの裏ジャケットでの初期の詩のタイトルの誤り

1985年にホット・プレスのインタビューで「ナインス・ウェーブ」の題名について話したとき、ケイトはアルフレッド・ロード・テニスン作のThe Coming of Arthurからの引用について説明しました。「テニソンのくだりは少し誤解を招きそうです。B面のインスピレーションでしたが、曲全体にタイトルが必要でした。曲の中にはちょうどいい言葉がなかったのです。何かを物語るタイトルが必要だったので、何冊かの本を調べてみると、テニソンからの完璧だと思える引用が見つかり、それにしたのです」と述べています。初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンは、イギリスの詩人(1809年-1892年)。

‘Wave after wave, each mightier than the last,
Till last, a ninth one, gathering half the deep
And full of voices, slowly rose and plunged
Roaring, and all the wave was in a flame’

? ‘The Coming of Arthur’

手書きのテニスンの引用が入ったビフォー・ザ・ドーンでの紙ふぶき
手書きのテニスンの引用が入ったビフォー・ザ・ドーンでの紙ふぶき

テニスン自身の手書きをデザイナーのディック・バードが忠実に模倣したものを印刷した紙吹雪が、2014年のビフォー・ザ・ドーンのショーで観客に向けて打ち出されました。ケイトもプログラムノートで書いている素晴らしいディテールです。